イベント紹介Event Information
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gallery αMにて、αM プロジェクト 2020-2021「約束の凝集 vol.5」高橋大輔の個展「RELAXIN’」が10月2日(土)から12月18日(土)まで開催されます。
本展は、高橋がここ数年てがけてきたさまざまな「絵画」から構成される。本展をつうじて、高橋大輔という画家は、絵画をやることを、こんなふうに延ばしたり叩いたり畳んだりしているんだな、ということが共有できれば嬉しい。良い時間が流れていると思う。
高橋は近年、それまで彼の表現の特徴であった極端に厚塗りな画面とは異なる「絵画」を続けている。変化のひとつに、モチーフの出現が指摘できる。5年ほど前に高橋は「自身が絵を描こうというときに、これを描きたい、という、通常の意味でのモチーフがみつからなかった」と書いている1。抽象的な絵画であっても、そこには制作のモチベーション(動機)があるのだと、モチーフとモチベーションの語源的一致を強調したりもしているが、いっぽうで制作のスタイルに変革を試みている。
色鉛筆でドローイングを繰り返すようになった画面には、1円玉硬貨の装飾にある植物や、「縄文・弥生...」といった時代区分など、具体的な線や文字が認められる。2018年には自画像も発表されている2。こうした変化を、たんに抽象から具象への移行であるとか、厚塗りが抑えられてきたといった絵画言語的な側面ではない方向から受けとめるようにしたい。彼の絵画の変化は、平面的にではなく、立体的に ー 彼の絵画はかつて頻繁にそう形容されていた ー 受けとられる必要がある。
《曲がり角のビル》は、高橋が毎日紙粘土のブロックに着色をしていったものである。小川町駅(埼玉県)から彼のアトリエに行く途中にある旧・整骨院のビルは、淡い緑と黄緑色の壁面をしており、整骨院のマスコットキャラクターのピンク色のゴリラの看板が強く目を引く。高橋はそのビルの印象を、紙粘土の塊へと落とし込んでいった。紙粘土の袋を開け、ごそっと取り出したまま、単色に着彩する、その反復と継続。長方形の塊自体は、旧作においてもレリーフ状の筆触ともいうべきかたちで現れていて、それは高橋の絵のなかでもとりわけ異彩を放っていたのだが、《曲がり角のビル》では、そうした要素がものすごくへんなところから生長して芽を出している。
日々の生活が多忙になるに連れて、制作時間は目減りしていく。つねに集中は断ち切られ、まとまった時間はとれず、一日の残り時間のわずかなあいだに少しだけ手を動かす。本展で発表される、ドローイングも、ラミネート加工されたカードも、単色に着彩された紙粘土も、それらがどれも反復を織り込んだ連作であることも、油彩画でないことも、「生活の喜びと労働を絵に対立させることなく絵を描きつづけたい」というモチベーション(動機)からきている。ここにはたんなるロマン主義的、表現主義的画家アイデンティティの葛藤以上のやりとりがある。モチーフとモチベーションの一致の深化。貧しても鈍しないという回路の開拓。生活は制作の敵ではけっしてない。生活を犠牲にせず、家族との暮らしに喜びと発見を見出しながら、絵を続けていけるのではないかという手応えが、形と素材に現れている。
とはいえ、本展では油彩画も展示される。最大のサイズとなる《Toy (虎)》は、高橋が子どもの遊んでいたおもちゃを片づけるときにピンときて描けたという、300号の油彩画である。こういう書き方をあえてするが、この思わず笑ってしまう矛盾の振り幅そのものが、本展の最大の見所だと思う。展示タイトルは制作中によく聴いているというザ・マイルス・デイヴィス・クインテットのアルバムタイトルからきている。
長谷川新(インディペンデントキュレーター)
1 『NEW VISION SAITAMA 5 迫り出す身体』埼玉県立近代美術館、2016年、pp.56-57の間の挿入テキストより
2 Art Center Ongoingの個展「自画像」。2018年。
キュレーターズノート(2020.1.16) 長谷川新
2018年の暮れ、「αMでゲストキュレーターをしませんか」と連絡をうけて最初に考えたことは、「絶滅」についての展覧会だった。風の谷のナウシカの原作漫画を繰り返し読んでいて、タイトルは仮で「ノーマンズランド」とつけていた。それはとても暗いように見えるけれど、別に悲観的であるわけではなくて、むしろそれを避けてアートはできないんじゃないか、という中途半端にリアルな手応えに基づいたものだった。他方で、できるだけ具体的であろうとも考えていて、開場時間を13時~20時へと変更したり、初日のアーティストトーク(とその文字起こし)をやめてカタログをもっといろんな読み方ができるようにしようとか、オリンピックシーズンの鑑賞/労働条件を鑑みて、展示はせずに別の時間の使い方ができるようにしよう、と決めたりもしていた。このちぐはぐさはなんなのだろう、と自分でもよくわからなかった。でもいまははっきり書けることがある。
各位が培ってきた技術は、「妥協」のために、つまりは部分的であったり矮小化されて行使されるべきではない。アートは、「アートなんて無意味だ」とか「どうせいつか死ぬ」とかいう地点にたどり着いてしまってから、むしろそこから、そこをどう折り返して、還ってくるか、という、いわば「帰還の技術」の連続である。虚無と相対化の荒野は、到達地点であったとしても、目的地では決してない。無意味かもしれない、けど、やりたいんだ、と踵を返す。
妥協を「約束の凝集(Com-Promise)」として、途方もなく前向きに考える。それが妥協ではなく約束の凝集である限り、そこには未来の時間が含まれている。今回のαMは、5人のアーティストが、自分が生きて死ぬ時代に、それぞれのやり方で、未来を確信する技術の、研鑽と共有です。
追記(2020.7.29) 半年前のキュレーターズノートを見返すと隔世の感があります(恥ずかしいですがそのまま再掲します)。それでも、「はっきり書ける」と書いた部分は今でもはっきり書けます。「約束の凝集」には、確信もあれば、矛盾もあります。アーティストの実践は社会と同じくらい複雑だし、社会はアートと同じくらい吹っ切れている。そういう潔さを心がけたい。でもそれ自体を見せたいわけじゃなく、問われているのはあくまで、どう還ってくるか、です。5人のアーティストの「帰還の技術」を目撃しにきてください。