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gnore your perspective 54「How I wonder what you are」 展に寄せて
菅原伸也 (美術批評・理論)
人類学者のティム・インゴルドは『ラインズ 線の文化史』(工藤晋訳、左右社、2018年) において、線のあり方を「軌跡 trace」と「糸 thread」の二種類に分類している。「軌跡」とは、 「連続的な運動によって硬質な表面のなかや上に残される、あらゆる恒久的な痕跡」であるのに対し、「糸」とは「三次元空間で他の糸と絡み合い、点と点のあいだに張り渡され」るが「表面の上に描かれることはない」線のことである。様々な線を用いていることが印象的である木下理子の作品をこれに従って分類するならば、いわゆる「青写真」の手法で制作された、サイアノタイプの平面作品における線は、紙の表面に印画されているため「軌跡」に相当し、立体作品の線は、 なんらかの表面の上や中ではなく三次元空間内に展開されているため「糸」に分類可能であるととりあえず言えるだろう。
しかし、インゴルドも言うように、「軌跡」と「糸」は決して相互排他的なカテゴリーではなく、時には「軌跡」が「糸」に、「糸」が「軌跡」に変容することもある。木下のサイアノタイプ作品は、物理的には紙の表面の上に描き出されていたとしても、そうした物理的な限定を超えて宇宙空間のような無限定な空間へと表面を変化させており、そこにある線は、確固とした基底面が消失した不確定な空間に展開された線としての「糸」に変形されているのである。すなわち、「軌跡」が「糸」へと変容して表面が溶解し、新たなる無限定な空間が構築されているのである。木下の立体作品も同じような観点から考えることができるだろう。つまり、たとえ壁や床に接して作品が設置されていたとしても、そこに投影される影を通して線が二重化することなどによって空間が不安定化され、そうした不確定な空間の中で「糸」としての線が繰り広げられているのであ る。
木下の線は、直線というよりもハンドライティングのように微妙に震えているものが多い。直線は、事前に到達点を予見し、点と点との間を軽視して最短距離でつなぐのに対して、震える線は、むしろ点と点との間で線が発展していくプロセスを重視する。震える線を見る我々は、 直線のように一気に点と点の間を飛び越えてしまうことなくその線の流れを順に目で辿っていきたいという欲望に駆られることとなる。
中川トラヲは絵画を制作する際、事前にデッサンを行わず最終的な形態を予め想定することもしないという。中川はかつてベニア板を支持体に用いていた時期には板の木目の模様から偶然的なきっかけを得て製作をしたこともあったが、本展の出品作では、もともと下地塗りのための画材であるジェッソを固めて支持体それ自体をつくっており、一枚ごとに異なるその不定形な形態や塗り残された空白の比率、直前の筆致から触発を受け、偶発性に満ちた制作プロセスを進めていく。中川にとって、絵画が最終的にどのような形になるかということよりも、そこに至るまでプロセスが非常に重要なのである。すなわち、木下の線と関連づけて表現するならば、中川の絵画は制作プロセスという、予想不可能な震える「ライン」を重視しているのである。
本展の作品において、その筆触は痕跡が消去されることなく可視化されており、さらにその多くは半透明であって、下層に透けて見える白の下地や他の筆触を犠牲にしてしまうことがない。したがって、その制作プロセスという震える「ライン」は、絵画が完成した後においても覆い隠されてしまうことなく、鑑賞者が想像的に後からその紆余曲折を目で辿ることが可能なのである。そして、ジェッソでつくられた支持体の不定形な形態はその上に描かれたイメージの形態と関係を結び、ある時には塗り残された白い空白部分は白い色面としてイメージの一部となり、またある時には半透明の筆触の下層に透けて見えるといったやり方で、支持体とイメージが一体化 することによって物理的支持体の表面は溶解し新たな空間が形成されるのである。
本展は木下理子と中川トラヲの作品における空間とプロセスをそれぞれ比較しつつ体験する絶好の機会となるのではないだろうか。