イベント紹介Event Information
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児玉画廊にて、笠井美香「風景の風景のうえの風景」が4月16日(土)から5月28日(土)まで開催されます。
平面の平面のうえの平面で
ー笠井美香とコラージュの距離
きりとりめでる
笠井美香の作品の多くは、紙製の生活廃材のうち、裏が無地で絵を描いたり色を塗りやすいということで笠井が手元に残した紙片が貼り合わされた平面だ。パッケージや梱包材として組み立てられていた紙はひらきにされ、千切られ、刃を入れられ、着彩され、積み上げられてひとつの風景(さま)を形成している。薄塗りで運筆を容易に追認できる色面は、水分の揮発によってデカルコマニーのように無限の細部を内包し、見ていて飽きることがない。作品を行き来しながら筆致を目でなぞっていると、笠井が紙片を塗るうえで、床が汚れないようにと養生に使ったと思しき紙片や切り落としが、別の作品に組み込まれていることに気付かされる。この平面は、自作を切断して画面に貼り直したパウル・クレー、着彩した紙片で造形したアンリ・マティスの系譜としてのコラージュといえるだろう。
コラージュは糊と紙さえあれば誰もができる手法だ。しかし、「描く必要があるか」と手技を疑問視する20世紀美術は、香水のラベルが絵画に必要ならば瓶からラベルをはがして支持体に直接貼ればよい/そのラベルを香水のラベルとして貼るのは博物館と変わらないのではないかという問いをコラージュに見出し、美術的命題に定めた。この技法は、共産主義と結びついた脱技術的・脱個人的な指向性、ルネサンス以来の絵画の前提である遠近法によるイリュージョンを唾棄する方法、既知のコンテクストから他へイメージを移植するという操作による新しさの創造という現代美術の思想と資本主義的な生態系、あらゆるイメージのサンプリングがひとつのソフトウェアで混交できる現代の条件として、直接的にも潜在的にも絶え間なく造形物を生み出してきた。そして笠井の作品は、このうねりの中に存在する。
コラージュの本意が文脈操作であるとしたら、イメージや素材の切り抜きとそのぶつけ合いが主題になる。その一方で、笠井の作品にはそういった異種の出会いによる閃きは発生しない。たしかに、段ボールは経済と環境対策の接点として時代を内包し、無数のサイズ展開とアップデートを繰り返すAmazonの箱はcovid-19で不意に出会う物質とは商品ではなく梱包材であるという状況には現代性が見え隠れする。だがそれ以上に企図されているのは、意味や素材の操作を中心にしないコラージュの再考だ。
笠井のコラージュは貼られた順序が明白で、その積層をフックにして消失点なしの平面の風景を現前させようとする。そして、その画面の作り方が簡易であるさまは、美術的命題だとルイ・アラゴンらに定められた以前・以後の切り貼りでつくられた造形すべてと接続し、コラージュを発明するとはどういったことか、美術史とはなにかと投げかけてくる。
笠井の平面作品は、コラージュの批評性の有無の基準として「いっさいの結びつきの予測を超える必要がある」とアンドレ・ブルトンを引きながら後続の世代のコラージュに対して苦言を呈するときの「コラージュ」とは別の地平を考え始める契機となるだろう。