イベント紹介Event Information
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Ohshima Fine Artにて、初個展となる村田文佳の展覧会「お月見」が9月18日(土)から10月9日(土)まで開催されます。
【作家ステートメント】
私は、ラスコーの壁画のような太古の昔からコンテンポラリーアートに至るまでの文脈を汲んで創作しているということを、実際に取り入れている美術の文脈を4つ挙げて説明しようと試みます。
1【物語性】
同じ絵の中に、同じ登場人物が複数存在することによって時間の流れを表す手法(異時同図法)を使っています。
≪異時同図法を使用している作品例≫
ルーカス・クラーナハの『若返りの泉』(アメリカ合衆国のもっとも古い物語の一つであり、長年繰り返し描かれてきた普遍的な題材)
画面左の病人や老人が中央の泉に入ると健康になり、人生を喜びを取り戻すという物語を表現しています。
日本美術で「異時同図法」が使われたのは平安時代からです。
現在「○○絵巻」と呼ばれているものは、時代を遡っていくと「○〇絵」という名称でした。その後、様々なジャンルが生まれたため「絵巻物」という名称になりました。そのことから、物語を表現するために絵が生まれたことをうかがい知ることができます。
観る側を退屈させないように次のページに引き込んでいく手法は現代の漫画やアニメーションに受け継がれています。
私が女性を繰り返し描くのは、絵画のなかに進行する物語性を強調するためです。
2【想像力、諧謔】
物資が少ないと人間の想像力は増幅されるという話があります。
フランスのドミニク・アングルの晩年の作品『トルコ風呂』は、トルコの公衆浴場「ハンマーム」がモデルです。アングルが「中東諸国には美しい女性たちが集まる共同浴場がある」という噂を耳にして、想像上の浴場の世界を描いています。
『トルコ風呂』は2005年横浜美術館「ルーブル美術館展」のメインビジュアルになり、日本で披露されました。5万人の観客を魅了し、私もその中の一人でした。
日本でも同様の作品が数多く残されています。円山応挙・長沢蘆雪・伊藤若冲の虎をテーマにした作品群は、実際の姿は見てはいないけれども中国や朝鮮からの伝聞を頼りにそれぞれの虎を追求して表現しています。「知らない」ことにより、画家はいつも以上に想像力を働かせて描きます。
それによって、作品に画家の個性が強く反映され、観る側へ強く訴え、また諧謔性においてもそれぞれの画家の持ち味が生まれるのでしょう。
私が実際に存在しない建物や摩訶不思議な生き物を描いているのは、これらの歴代の巨匠画家のように、想像力や諧謔を画面に表出させるためです。
3【ナンセンス】
以前、縄文時代(約13000年前~2300年前)の火焔式土器を見て、なぜこのような創作ができるのか不思議に思い、縄文人の研究をしている実験考古学者の方にお話を伺いました。
そのお話の中で、一番驚いたのは縄文時代の遺跡からは人々が争った形跡が全く出ないということでした。日本列島は自然が豊かで食料に困ることがなかったため、上下関係という概念自体がなく、物流がありながらもいさかいが起こりませんでした。また、人口が少なく人材が貴重だったため、一人一人が大切にされていました。病める者や障碍のある者は最後まで面倒を見てもらい、村の存続のために嫁入り・婿入りした人に対しては、村に貢献してくれた感謝の気持ちで、より丁寧に埋葬されていたそうです。
それに比べ、現代社会はちょっと窮屈ではないでしょうか。特に無意味でばかばかしい創作物自体が貴重に思えます。縄文時代の思想とは真逆な感覚なのかもしれません。
縄文時代の憧憬とそれに対比した現代社会への課題として、私の描く画風の”ばかばかしさ"は、社会の中で責任のある立場になっている大人にこそ向けたテーマになっています。
さらに、私の創作は、浮世絵画家の河鍋暁斎からも影響を受けています。
河鍋暁斎は、創業400年の歴史のある狩野派の御用絵師でしたが、明治維新によって御用絵師は仕事を得るのが困難な状況になりました。そこで、暁斎は持ち前の柔軟な感性と類まれな技術を生かしてジャンルに拘らず様々な分野で活躍しました。
例えば『鬼碁打図(おにごうちず)』では、厄を払う鐘馗(しょうき)という神様が鬼を退治するという古典的なテーマを扱っていますが、暁斎は鐘馗を、ただ平穏に生きているだけの鬼たちを脅かす存在として描き、職権を乱用する明治政府の官憲に見立てて体制を批判しています。また、『カエルのヘビ退治』では現実世界では弱い生き物が、絵の中で強い生き物に勝つという逆転劇を描きました。
私が絵の中に時事問題を取り入れたり、登場人物たちを現実とは異なる役割や力関係に変えて描くのは、作品の単純明快な可笑しさに加え、絵画の無意味性に対する争点やコンセプト至上主義の現代美術に対しての訝しさを醸し出して、見ていただく方のそれらへの考察を促すためでもあります。
4【銭湯】
そして、私が一貫し銭湯をテーマにしている大きな理由は、異なる価値観に対する寛大な心、思いやりというものが共通概念であるということを絵画に込めたいという思いがあります。それを表現するのに適していると考案したものが古今東西に存在する”銭湯”という文化です。
例えば日本の戦国時代の徳川家康は、数万の軍勢を率いて箱根に攻め入ったときに、温泉場では乱暴狼藉を加えてはいけないというおふれを出しました。ところ変わってドイツ北部のバート・ピルモントにあるローマ時代から大切に保護されてきた「聖なる泉」と呼ばれる温泉地では、かのナポレオンがナポレオン戦争で占領した時に、バート・ピルモノントを含む主要な温泉地の中は「安全を完全に保証する」という布告を出しました。 戦いの傷を癒すのは敵味方なく休戦する、その場を聖域にしたということではないかと理解しました。これらのエピソードを聞き、究極の諍いである命の奪い合いまでしていた者同士であっても思いやりという心が発露する一例になるのではと思い至り、私の創作に最適なシンボルを掴んだと確信しています。現代に生きる私の絵画の中に、そのシンボルに内包したテーマを見出していただければ幸いです。
ーーー村田文佳