イベント紹介Event Information
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あをば荘にて、平野泰子・衣真一郎「風景(私は知っている/整理できない)」が開催されます。
「完璧に抗う方法 – the case against perfection -」は、図師雅人・藤林悠による企画展覧会です。企画者を含む9名と1組のアーティストが、2人展を隔月で開催していきます。第3回⽬は、平野泰子・衣真一郎「風景(私は知っている/整理できない)」
2⼈展形式の美術展覧会の開催にあたり、事前にリサーチとして出展作家の制作を始めた動機、過去作のすべてについてなど、作品にまつわるインタビューを⾏い、その内容から抽出しコンセプトを作成しました。アーティストの営みについて彼ら/彼⼥らの⾔葉を通してその経験を集積し、発された表現そのものがまた⾃⾝の元へ還るまでの過程を垣間⾒ようとします。
本展に向けて
本展は2017年、アーティストの図師雅人と藤林悠による行われた展示「Enhancement」(※1)に端を発する。「身体」という共有のテーマの認識、そして当時私たちにでさえ、ありふれて聞こえるようになってきていたSingularity(シンギュラリティ、技術的特異点)という、漠然としながらも変化を訴えかけてくる時世への、各々の立ち位置を考えることが展示「Enhancement」の目的だった。
その後も図師と藤林による議論は継続して行われ、2人の関心はSingularityやEnhancementといった力ある言葉には決して括ることができない、アーティストの「営み」(※2)自体へと目を向けていくことになる。生きていく環境の中で、無数の事物の流動にさらされながら、作品を制作し、それを社会に開くアーティストたち。社会に影響を与えつつ、と同時に自らがつくり上げた作品とそれによって生じた社会からの影響を受けて、アーティストもまた変容する。そこには、終わりがみえず、しかし、だからからこそしなやかで毅然とした、社会・環境変化へのアーティストの態度が今も、そして連綿と続く歴史の中にもみてとれる(そして、この態度は他の者たちへ連鎖できる)。
本展「完璧に抗う方法」(※3)は、この「営み」の力学や、それを生みだすアーティストたちが生きる環境を知るために現代を生きる9名と1組の参加アーティストたち(※4)へ、幼少期から現在の活動(収録時)までに至るインタビュー(※5)を長い時間をかけて行っている。展覧会はそのインタビューから紡ぎ出されたアーティストたちの関係性を編成した5つの会期によって構成される。
各会期のテーマは個別性を持つが、ぞれぞれの会期と関係を結ぶことで、現代の私たちが思慮すべき事柄を多重複層的に含んでいるものになるだろう。願わくば、本展のアーティストたちの「営み」が交わり、生み出される複数の環境から湧き出た事物が、また、いつかどこか誰かの、できればあなたの「営み」へと流れ出すことを期待する。
※1 Enhanement … 「増強」「増進的介入」と訳される先端科学医療技術の用語でもある。「治す」のではなく、遺伝子操作、投薬、人体改造など元々の健康状態の身体や精神に影響を「加える」技術。人間観の変質や優生学的差別にも結びつきかねない観点から、議論が重ねられている。展示「Enhancement」はこのトピックから示唆を受け、図師と藤林というアーティストの心身状態とメディウム、そして制作や制作環境との関わりを考え直すものだった。会場はSpace Wunderkammer(2017年3月24日~4月9日、金土日のみ)。期間中、冨安由真、田中永峰 良佑、奥村直樹、菊池良太、佐藤史治と原口寛子を招いてのトークも行った。
※2 「営み」というテーマにおいては、本展の会場となる「あをば荘」も非常に重要な意味を帯びる。2012年より墨田区の古い集合住宅の一部を改装し、企画スペースとして運営しているオルタナティブスペースだが、2階を企画者たち自身の住居にしていたこともあったりと、生活と表現が分かち難く結びつく場でもある。これまで運営に関わってきた者も、アーティスト、美術・演劇関係者、農業関係者、福祉従事者など多様である。
※3 本展のタイトルは書籍「完全な人間を目指さなくても良い理由 遺伝子操作とエンハンスメントの倫理」(マイケル・J・サンデル著、林芳紀・伊吹友秀訳、2010年、ナカニシヤ出版)の原題“THE CASE AGAINST PERFECTION”を、企画者たちが意訳したものである。本著は、企画当初の図師・藤林によるリサーチや対話、振り返りの中でたびたび取り上げられてきたものでもある。
※4 本展によって私たちが意図するものは、本来すべてのアーティストが対象であることは自明である。そのため今回参加をお願いしたアーティストたちは、テーマに照らし合わせた上で、図師・藤林が自分の眼で作品をみて、言葉を交わした、それぞれの具体的な経験に基づく作家が挙げられている。結果的に同世代の作家が集まっている。
平野泰子・衣真一郎「風景(私は知っている/整理できない)」
平野泰子の作品は三原色によって作られるグレー系の色面を矩形全体に施すことから始まる。その過程の後に、彼女は最低限の要素(何かを示すように加筆したり、そこにあったものを呼び起こすようにスクラッチをしたり)を加えているように見える。夕闇時、色の個性や距離感がなくなっていくような空間の中でなお位置を示す、そのような絵画面を平野は描く。そこには、彼女が日々見て感じ取ってきた風景への視点と感覚が漂っている。森に溶けていった彼女の感覚、月がずっと後ろをついてくるあの距離感、山並みとコップの縁を同じように感じる視点、それらが平野の絵画の中にある。彼女の話を聞いていると、彼女の感覚は、彼女のものであったり、対象や風景のものであったり、同時に両者にあったりするのだなと感じる。彼女はそこを行き来しているし、時には溶け合ってあるのかもしれない。
衣真一郎も風景の絵を描く。彼は、生まれ育った群馬の風景を描く。近年では、アイスホッケーをモチーフにレジデンスで訪れたカナダの地も描いているが、それも幼少期に衣自身がやっていた経験によるところが大きいだろう。彼が描く風景は、必ずしも一般的な風景画とは異なる(それは平野もだが)。彼は写実的に風景を描くのではなく、自身の得てきた感覚・体験・記憶を交えて具体的に描いている。その具体性は、構図やタッチ、絵画を構成する全てに現れている。キャンバスや木板に乗せられる絵具ひとつひとつが慎重に丹念に乗せられているし、そのストロークやタッチも時間や重さが固有にある。ひとつの風景画としてあろうとしながらも、そこに制作に使用される物質や個に由来する感覚、記憶を屈服させないこと。衣の作品は、それが可能であることをありありと、そして淡々と私たちに掲示する。
衣も平野も風景をベースに描いているという点では共通しているが、それのみで今回の展示が構成されていることはない。風景も、絵画も、この手のテーマを議論の爼上にあげることは、なかなか勇気のいることだ。あまりにも定義が広く、揺らぎやすいこれらのテーマの方へ2人の制作を持っていくことに今回終始するよりは、テーマをこの2人の活動や人間性それ自体に寄せて精細に見ていくことの方が、「風景」や「絵画」を携えてまた、人と土地や環境への関わりを考える私たちの契機となるだろう。