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KANA KAWANISHI PHOTOGRAPHYにて、小松敏宏個展『ミザナビーム|Mise en Abyme』が2022年4月9日(土)から2022年5月14日(土)まで、開催されます。
東京藝術大学大学院美術研究科修了後、マサチューセッツ工科大学(MIT)大学院建築学部を修了した小松敏宏は、アムステルダムやニューヨークでの滞在制作を経て、MoMA PS1やクイーンズ美術館での個展など精力的に活動。帰国後は、瀬戸内国際芸術祭(2013)や越後妻有アートトリエンナーレ(2012/2015)など国際芸術祭を中心に、サイトスペシフィック・インスタレーション、パビリオン(仮設建築)、写真表現など、事象の認識を更新させる視覚芸術を重ねてきました。
西麻布で2年振りの個展となる本展では、建築空間のレイヤーを打ち消す透視写真シリーズ 〈CT〉 の新作を発表いたします。フランス語で 「底知れぬ深みに置くこと=入れ子状態に置くこと」という状態を意味するMise en Abyme(ミザナビーム)をタイトルに冠した本展は、欧州の建築空間をモチーフに制作されていた従来の作品から一転し、日本の建築物をモチーフにした新作で展示を構成いたします。
欄間の組み込まれた落ち着いた色調の木造建造物(京長屋や、皇室が滞在したこともある書院造りの旧家)や、廃校となった木造の小学校は、幾何学模様にレイヤーがくり抜かれたその奥の空間を、見通せるかのように感じられますが、よくよく観察すると、壁を取り払わずには得られないはずのパースペクティブが現れています。1970年代のNYで活躍をしたアーティスト、ゴードン・マッタ=クラークは、建造物の実空間にスリットを入れて景色を更新させましたが、ディスプレイ上のレイヤーを消去することに慣れた私たちの眼や脳は、〈CT〉 で小松の示す景色をすんなりと受け入れてしまいそうになり、記憶、視覚、空間認知など、人間の知覚の根幹に揺さぶりをかける表現であることが分かります。
国内外で活躍をする小松敏宏が日本家屋をモチーフにした新作で構成する本展を、是非お見逃しなくご高覧ください。
アーティストステートメント
身体をCTスキャンするように、デジタルカメラで家や校舎をスキャンしながら撮影し、室の向こう側に実在する、壁や障壁画、カーテンで隠された「奥」を透視するようにして表出する。
実際の建築空間をリアルに切断しスリットや穴を穿ち刳り貫くのではなく、現場で撮影した建物の前室「手前」と後室「奥」をレイヤー化させた写真をもとに、「手前」壁面の画像を部分的に刳り貫き「奥」を露わにし、まるで実際に穿ったように見せる現実と虚構の目眩く視覚的撹乱。
太秦の義祖母が93歳で亡くなるまで、嫁いでからずっと住み続けた京長屋、建築士の父を持つ妻の京都岩倉の生家、大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレの舞台でもあり廃校になった新潟の木造の小学校、皇室が滞在したこともある130年前に建てられた北兵庫の書院造りの旧家、人の記憶と歴史が詰まった建物を写真が透視する。
小松敏宏
小松敏宏:建築/写真の内と外
建築であること、そして、写真であること。小松敏宏の〈CT〉シリーズを、まずは、そのように記述することができるだろう。た だし、それを作品の「内容」と「形式」に区分してしまうと彼の意図は伝わらなくなる。この二つは切り離すことのできないも のとなっているが、そのことによって、通常の写真とは異なる特異な空間が現れてくるのである。 人間が長年生活していた建築空間に顕著だが、その写真にはある〈気配〉が写し出される。私たちが受け取るのは、建 築家によってつくられた当時の姿ではなく、住む人間が生活上の必要から持続的につくり直していった姿の方だからで ある。部屋の中に置かれているさまざまな事物は、よく見ると、古いものと新しいものとが混在している。時系列的にはバ ラバラなのだ。それらが年季の入った木製の柱や梁などによって統合されるのである。 〈気配〉ということでは、その空間での生活者が写真の中に不在であることも関与する。過去の〈CT〉シリーズの作品でも、 基本的に、写された中に人間が入り込むことはなかった。住む人間の「不在が写されている」といってもよいかもしれな い。そうした中で、母と子が佇む様子が写されたものが含まれるのは新しい展開といえる。過ぎ去ったものを次の世代が 継承していくという「つながり」を暗示するからである。 加えて、カメラが本来的に「部屋」を意味する言葉であることにも注意する必要がある。ここでは、写すものと写されるも のが相似形の関係となる。実際、〈CT〉シリーズは空間が壁で仕切られていることを条件とするため、写されたものは「閉じ られた空間」の印象を与える。小松自身はカメラの後ろにいて、写されたものの中には不在だが、建物の部屋の中にいることで、写真の内側にいると見なすこともできる。こうした内側に入り込んでいる感覚は小松のインスタレーション作品にも 通じるところがある。 外側でもあり内側でもあるという立ち位置の両義性はこのシリーズの空間の特異性を説明する契機になる。手前側の部 屋の壁に穴が開いていることに意識が向かいやすいが、それだけでなく、奥行きが縮約されているように感じられることが 注目される。カメラと結びつけて論じられることの多い、ルネサンス絵画の連続する無限の奥行きとは異質なのだ。それら は「窓」の比喩で語られるように、制作者/鑑賞者はその外側に位置している。このちがいは矛盾というほどに大きいもの ではない。わずかな違和感にすぎない。それでも、この違和感は建物の醸し出す〈気配〉を喚起することにつながってい る。 奥を見通すことのできない壁に穴が開いたよう見える小松の作品は、視覚的なトリックを主題としたものと思われるかもし れない。だが、おそらくは逆なのだ。トリッキーな表現が多く登場した1960年代末から1970年代の写真がそうであったよう に、小松の主題は、身体性を喚起することで、人間が「ものを見ること」そのものを問い直すことにある。建物(建築)とカメ ラ(写真)の入れ子構造はそのためにセットされたものなのである。
藤井 匡(美術評論家、キュレーター、東京造形大学教授)