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代理=表象しない絵画
きりとりめでる
いってしまうと何にも定義されたくないことは確かです。
—宮崎光男
「空気が見える」瞬間の多くは、気化・液化した微粒子や粉塵が宙を舞い、光を反射したときだろう。すなわち、ひとにとっての空気の可視化には、LED光源やエコー器具やカメラ機器に限らず、なにか媒体が必要になる。さらに、その空気がどのようなものか判断するためには、知識や技術や感性が必要だ。そしてこの習熟の必要性は、作品観賞に対しても当てはまる。
しかし、宮崎光男が2018年から続けるシリーズ《atmosphere》は、宮崎が言うところの「曖昧さ」「雰囲気」そのものであろうとしている。つまり、何かの立場を表明することもなく、何かをプレゼンテーションすることも消極的に拒否し、まさに「空気」が目指されているとしたら、何も感じたり、考えたりする必要すらないかもしれないのだ。この絵画は、その内容や形式をもって「あなたは誰なのか」と観賞者の視線を折り返すことはない。ただ画面に引き留め、場を形成しようとしているようだ。
こういってみると、終着地のない円環の視線誘導と無思想に見える作品であれば空気の体をなすように聞こえるかもしれないが、それは違う。例えば、《atmosphere》が、それぞれこの画面であるのはなぜなのと考えたい。
ひとつ仮説を立ててみよう。鍵になるのは描画材の使われ方だ。作品はいずれも水/膠でとくことができるアクリル絵具と岩絵具が多分に使用されている。この両者の大きな違いは、不可逆性の有無だ。アクリル絵具は一度乾燥すれば、水で落ちることはないが、岩絵具は湯で画面から落ちる。だから、岩絵具の上にアクリル絵具を置こうとすれば、その水気で岩絵具は溶け、滲むのだ。この差異によるオートマティズムは、描画材から揮発する水による空気の可視化を画面に定着するといえるだろう。いってみるならば、宮崎の作品に湿度が感じられるのは、このように描画材の水分操作で像が生まれるからである。
複数あった流派が明治期に「日本画」として統合されたことは、極東の島国が単一国家として脱亜入欧を果たし、諸藩の人々を臣民に変化させるための、文化装置のひとつの発動であった。そして、ある「日本画」は国威の発揚と全体主義を特定のモチーフによって視覚的に下支えしたのである。この「日本画」の歴史を目の前にしたとき、宮崎がどうにもそうなってしまうという「曖昧さ」と、岩絵具とアクリル絵具が重なり合い物理的に混交しつつ分裂する様に、たったいまの日本画の抽象が背負ってしまう政治性を考えさせられてしまうのだ。