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児玉画廊にて、和田真由子「Wandering rocks」が10月16日(土)から11月20日(土)まで、開催されます。
和田真由子「Wandering rocks」に寄せて
福元崇志(国立国際美術館 主任研究員)
イメージにボディを与える——制作にたずさわる者であれば、誰もがふだん、当たり前に実践していることだろう。頭のなかで思い描いた形、傍目には不可視なそれを誰かと共有しようとするなら、絵具や大理石といった、素材の助けが必要になる。絵画であれ彫刻であれ、またどんなジャンルの美術であれ、透明なイメージには、不透明な物質が受肉されなければならない。
和田真由子もまた、当然のことながら、イメージにボディを与える。ただし、どこまでも厳密に。つまりは思い描いたイメージを、思い描いたそっくりそのまま、いかなる脚色も改変もすることなく。和田の描く図像(たとえば馬)の多くが、シルエットとして提示されていること、またその細部の関係(たとえば馬の前肢の遠近)がしばしば曖昧であることに注目しよう。頭のなかのイメージはふつう、自分自身にとってさえ必ずしも明瞭でなく、はっきりした部分と、ぼんやりした部分とをあわせもっている。いや、そもそもそれは、すぐさま移ろい流れていく不安定な存在であるから、特定の形象だけをくまなく、そしていつまでも想起しつづけることは難しいというべきか。頭のなかの「イメージ」は、ことのはじめから曖昧である。ならば、それに与えられる「ボディ」もまた、曖昧でなければ嘘になるはずだ。
では、その曖昧さはいかにして可視化されるのか。答えは、たとえば鉛筆やビニールシートといった素材が教えてくれる。弱く頼りない描線が引かれた、半透明の支持体。ふわりと波打つその画面は、向こう側をぼんやりと見せつつ、それでいて光をやわらかくはね返し、描かれた形象を見えづらいものにする。とりわけ「分解と統合」というシリーズの、木枠に張らず、タオルのように掛けて展示する作品群であれば、画面は前後に二重化し、見えづらさにも拍車がかかるだろう。見せないわけではないが、はっきり見せるわけでもない。見えすぎないための調整、不可視と可視との振幅が、その制作のかなめとなる。
いっぽう、和田が自身の試みをあくまで「絵画」として構想していることにも注意しておこう。受肉されたイメージを、彼女はただの絵(picture)でなく、制度化された絵画(painting)として提示しようとしている。絵画的ならざる素材を用い、また実物そっくりに見せかけることも拒むなかで、なお作品に絵画性を担保しようとするなら、描線と描線との物理的な重なり合いがもたらす画面の層構造を強調するほかない。クレメント・グリーンバーグなら「オプティカル・イリュージョン」と呼ぶであろうそれを、和田は描線にそって透明メディウムを塗布することで、あるいは先述した「分解と統合」シリーズように、画面を二重化し、前後を同時に見せることで実現していく。
今回の個展に、和田は「Wandering rocks(さまよう岩々)」というタイトルを付与した。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』第10挿話に付された題辞が引用されたのは、それがイメージ生成のありようを象徴的に示唆してくれるからであるそうだ。ダブリン市内で同時に、そして互いに無関係に起こる複数の出来事、そのそれぞれが集約されることなくただ別個に並走していくさまは、たしかに和田の考え方に近しい。いま思い描いている形象と、その前後に思い描いた別の諸形象とのあいだの、脈絡のなさ。ただなんとなく脳裏に浮かんできただけのそれらに、論理的な結びつきを見出そうとしても、結局のところ事後的であるほかはないだろう。寄せては返すをくりかえすイメージの集積、それをまとめて提示することで、和田はさらなる曖昧さを可視化しようと試みる。