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gallery αMにて、豊田市美術館学芸員の千葉真智子氏をゲストキュレーターに迎え開催中のαMプロジェクト2022「判断の尺度」の第3弾となる展覧会「判断の尺度 vol.3 荒木優光|そよ風のような、出会い」が2022年8月27日(土)から10月15日(土)まで開催されます。
外部の招喚: 受信機=トリガーとしての作品
蝉が鳴き始めたときに初めて、それまでのシンとした無音を思い知る。
機械音がおさまったときに初めて、耳を圧迫するように低音が鳴り響いていたことに気づく。
私たちは常に外部に晒されていて、そのちょっとした外部の変化がトリガーとなって、感覚のスイッチは切り替わる。
「切り替える」ことなく「切り替わる」
風景が、世界が、新鮮に発見される。
「ほんの少しのエピソードの種」を、最近の僕は広義のサウンドトラックの1つと捉えている。・・・それは音のないサウンドトラックのようなものであり、なんらかの「開かれ」のトリガーとして機能する
(荒木優光『「大声で叫びながら自転車に乗っている人」というサウンドトラック(世代を超えて)』)
音の場を立ち上げようとする荒木さんは、彼自身が受信機のように外部に開かれているのではないか。だからその作品は、外部との交渉の結果であり、外部との接触面としてある、と言えるかもしれない。
さて、仮にも作品というものが私を超えて共有され、何がしかの良さを持ち得るのだとすれば、そこには必ず、私以外の他者、外部の了解が成立していることになる。作品を作るとは、大袈裟に言えば、その判断を私以外のものに賭することであり、いまここを超えた時間・空間にいる人や事物を考慮し、作品を判断しようとする態度だとも言える。私を超えたそのような賭けは可能だろうか。
制作する私が否応なく外部を感受するように、作品も否応なく他者に感受されるものとしてある。
トリガーとしての作品。
私は私の外側にあるものとどのように付き合い、判断を重ねていくことができるのだろうか。
千葉真智子(豊田市美術館学芸員)
そよ風のような、出会い
「木村くん」または、「あんた誰?」のためのサウンドトラック
ある距離を持った出会い。そして、出会い直し。スマートフォンやSNSを通して垣間見る出来事や、人のこと。
そこへ、サウンドトラックを付けてみようと思ったのは、2022年6月の半ば。そんな折に、絶妙な距離感を保っ
たまま必然のように出会い直したのが、「木村くん」だった。
誰かさんから誰かさんへ、そよ風のようなメッセージの集積としてのサウンドトラック。距離感抜群God hand you。
荒木優光
「判断の尺度」
全ては平等に。その呼びかけは、平等であるために過度なまでの正しさを私たちに求める。しかし正しさとはそもそも何だろう。それはときに一つの原理へと向かい、小さな個別の差異を見えなくしてしまうだろう。いうまでもなく、平等であることは同じであることを意味しない。同じでないものを等しいというとき、私たちは尺度を一つにして、個々についてのそれぞれの評価や判断を手放さなければならないのだろうか。そうではなく正しさを超えて区別し、言葉を与えようとすること。それには、私たちが手垢のついた言葉自体を作り直す必要がある。美術と呼ばれるものが少なくとも造形に関わる行為であるならば、その造形=言葉を練り、拠り所にすることで、尺度自体について問い、判断自体を創造的に作ることができるのではないだろうか。独りよがりになることなく、普遍的な外部をもつものとして。
私の判断が普遍性をもつかどうかは他者の判断に賭されている。私の判断を支えるものとして、私の外部を召喚すること。そこで想定されるのは、予め同じ尺度を持たないもの、置き換えできないものであり、その困難な対話が新たな言葉と批評を開く可能性の種となる。
1年の企画をとおして、それぞれの作家とともに判断の尺度について考えてみたい。これまでの尺度を手放して作り直す。この造形=言葉による判断は、世界を測る尺度となる。だからこの行為は、静かに深く政治的でもある。
千葉真智子(豊田市美術館学芸員)