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gallery αMにて、豊田市美術館学芸員の千葉真智子氏をゲストキュレーターに迎え開催中のαMプロジェクト2022「判断の尺度」の第2弾となる展覧会「vol. 2 加藤巧|To Do」が2022年6月18日(土)から8月6日(土)まで開催されます。
メディウムを介してダイヴしようとすること。
絵を造りながら加藤さんがしていることを、こう言ってみることはできないだろうか。
絵画が「絵画」として存在する以前に遡る時間、あるいは美術とされる枠を超える領野。あえてメディウムを引き受けながら、なおそこに向かおうとすること。
今回の企画を考えるなかで頭を占めていたことの一つは、いまある判断や批評の枠組みそれ自体からどう逃走することができるか、ということであった。私たちが使う言葉は、了解されているルールがあってはじめて機能する。この決まりごとに慣れていくなかで、私たちは判断そのものを、無意識のうちに私の外部に委ねてしまっているのではないだろうか。
美術には、いくつかのジャンルと呼ばれるものがあり、そのジャンルに特有のメディウムがあり言語がある。だから、作品を作ろうとすれば、おのずと長年の蓄積によって形成された問題の系譜を頼りにしてしまうし、作品を見ようとすれば、おのずと聞き覚えのある批評言語を当てはめてしまうこともあるだろう。しかし、長年の使用に耐えてきたメディウム=言葉には本来、私たちが限定的に使用する以上の、自立した可能性が潜んでいるのではないか。メディウム自体が、私たちを新たな地平に導いてくれるのではないか。メディウムを、放棄することなく扱い直そうとすること。あえて、もっとも古いメディア=絵画でその実践をしてみるのがよいだろう。
使い古されたはずのメディウム=言葉を通して遠くに行く。思いきって、私の手癖を放り投げる。作家も。
批評も。そうしたとき、私たちは何から解放され、何を得ることができるのだろうか。
千葉真智子
To do
何者かの運動軌跡がある表面に残っている、その様子を見る。
それぞれの振る舞い(≒運動軌跡)には、運動の種別ごとに、用途ごとに、場面ごとに、「動詞」が割り当てられている。表面に現れている強弱、方向、材料の状況、使用された道具、などから、その振る舞いがどのようであったのかが観察される。もしくは、その振る舞いは「どのようにもあり得たのか」。
日々は振る舞いの集積でできているが、その行為のそれぞれを振り返り、つぶさに見ることができるだろうか。行動はどうであるのか。日々残し、または残ってしまう運動の軌跡は「どのようにもあり得るのか」。
加藤巧
「判断の尺度」
全ては平等に。その呼びかけは、平等であるために過度なまでの正しさを私たちに求める。しかし正しさとはそもそも何だろう。それはときに一つの原理へと向かい、小さな個別の差異を見えなくしてしまうだろう。いうまでもなく、平等であることは同じであることを意味しない。同じでないものを等しいというとき、私たちは尺度を一つにして、個々についてのそれぞれの評価や判断を手放さなければならないのだろうか。そうではなく正しさを超えて区別し、言葉を与えようとすること。それには、私たちが手垢のついた言葉自体を作り直す必要がある。美術と呼ばれるものが少なくとも造形に関わる行為であるならば、その造形=言葉を練り、拠り所にすることで、尺度自体について問い、判断自体を創造的に作ることができるのではないだろうか。独りよがりになることなく、普遍的な外部をもつものとして。
私の判断が普遍性をもつかどうかは他者の判断に賭されている。私の判断を支えるものとして、私の外部を召喚すること。そこで想定されるのは、予め同じ尺度を持たないもの、置き換えできないものであり、その困難な対話が新たな言葉と批評を開く可能性の種となる。
1年の企画をとおして、それぞれの作家とともに判断の尺度について考えてみたい。これまでの尺度を手放して作り直す。この造形=言葉による判断は、世界を測る尺度となる。だからこの行為は、静かに深く政治的でもある。
千葉真智子(豊田市美術館学芸員)