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*政府からの緊急事態宣言に伴う休業要請を受け、会期を変更いたしました。
タカ・イシイギャラリーは、6月1日(火)から26日(土)まで、ヴィヴィアン・スプリングフォードの個展を開催いたします。アジアで初めての個展となる本展では、1950年代から70年代の間に制作された代表作13点を展示いたします。
1913年にミルウォーキーの裕福な家庭に生まれたスプリングフォードは、子どもの頃に父親の転勤に伴い、家族とデトロイトへ移住し、その後1930年にニューヨークへ移り住みました。マンハッタンのアッパーイーストサイドにある名門私立校スペンススクールで学んだ後、1932年には社交界に加わりますが、同じ境遇の女性たちと一線を画し、美術の道へ進むことを目指して同年アート・スチューデンツ・リーグ[1]へ入学し、1940年代半ばまで在籍しました。1930年~40年代には、同学で学ぶ傍ら、商業イラストレーターとして活動し、19世紀から20世紀初頭の独裁者たちを分析した『Juggernaut: The Path Towards Dictatorship』(アルバート・カー著、1938年刊)の挿絵の担当や、肖像画などの委託制作も引き受けました。
1950年代のニューヨークのアートシーンは男性絶対優位の構造が揺るぎなく、大恐慌後、公共事業促進局(WPA)による連邦美術計画に参加し、男性アーティストと肩を並べて働くことでようやく女性アーティストは受け入れられました。この計画に参加することもなく、有名なアーティストの夫も裕福な配偶者も持たないスプリングフォードは、女性アーティストとして成功とは程遠い環境に身を置いていました。そのような境遇にも拘らず、彼女は当時の重要な美術批評家であるハロルド・ローゼンバーグの評価を得るほか、その作品はレオン・ムニューシン、ポール・ジェニングス夫妻、マイケル・クロス夫妻といった著名なアートコレクターのコレクションの一部でもありました。
1950年代には、ドリッピングなどアクション・ペインティングの技法も取り入れ、抽象絵画の制作を始めますが、1958年から1960年代初頭にかけて、ニューヨークの6番街26丁目にあるフラワー・ディストリクト(地区)でスタジオを共有していた中国系アメリカ人アーティストのウォレス・ティンとの親密な関係は1950年代後半の彼女のキャリアに大きな変化をもたらしました。ティンによって紹介された書道、東洋思想や美術は、スプリングフォードの抽象の概念や絵画の身体性に絶大な影響を与えます。当時の高名なギャラリーであるグレート・ジョーンズ・ギャラリーでの初個展(1960年)とそれに続くプレストン・ギャラリーでの個展(1963年)で展示された作品には、彼女の初期作品に書道の技術が積極的に取り入れられていたことがよく見てとれます。キャンバスに貼った楮紙に直接描写を施した「無題」(1958年)では、カリグラフィーのような自由な筆運び(ジェスチャー)に加えて、何も手を施さない部分を残している点から、余白の美を重んじた水墨画の構図の影響も色濃く見てとれます。書道の技術を取り入れ、変更や修正などを施さず一度の描写で作品を完成させるこの「ワンショットペインティング」を通して、自己の抽象表現を発展させていきました。
二度の個展を経た後、コマーシャルギャラリーとの関わりは疎遠になりますが、それ以降もスプリングフォードの独自の抽象表現への追求は留まりません。1960年代後半からは、ステイン(染み)・ペインティングの技法に取り組み始め、アルシュ水彩紙や生キャンバス、あるいは下地を薄く塗布したキャンバスに水で希釈したアクリルを注ぎ、形と色が重なり合った無数の層から成るユニークな抽象絵画を制作します。これらの絵画では、彼女が世界各地への旅で目にした風景、特にグアテマラ、ヒマラヤ、タンザニア、カリブ海の景色―波打ち際や、山の稜線、地平線―が豊かな色彩で描写されています。絵具が注がれた地点から波打つように広がり、紙の凹凸に沿って絵具の濃淡が現れるとともに、様々な色が混じり合うことで、有機的な曲線が生まれます。乾燥の段階で結晶化したアクリルが画面の表面を覆い、見事な色彩のグラデーションを出現させています。「Untitled VSF588」(1975年頃)では、さまざまな色と大きさのドリッピングを巧みに組み合わせ、熱帯地域の色とりどりの花や植物が咲き乱れている様子を彷彿させます。花はスプリングフォードの作品に頻繁に登場するモチーフの1つですが、意識的にせよ無意識的にせよ、ティンとの共有スタジオがあった地区の名前から着想を得たものだと考えられています。
1960年代には、ティンとの離別やオハイオ州に住む両親の介護など、様々な要因からアーティストのコミュニティとの交流が途絶えてしまいますが、1970年代にニューヨークで生まれた「Women in the Arts」や「Women’s Caucus for Art」といった女性アーティストの主体性の向上を目指した活動団体に参加し、団体が主宰するグループ展や、作家兼キュレーターのジューン・ブラムが企画し、女性解放運動の文脈において革新的であった点で重要とされる展覧会「Works on Paper/Women Artists」(1975年、ブルックリン美術館)などで作品の発表を続けました。
1970年代に入ってからも、ステイン・ペインティングの表現をさらに進化させ、ステイン・ペインティングを施したアルシュ水彩紙を切り抜き、ボード紙にコラージュした作品を制作しました。「アッサンブラ―ジュ(集合)」と巧妙に名付けたこの作品群では、複数のレイヤーから成る複雑な構図を作り出し、大画面での色の組み合わせや配置によって、抽象画に新たな意味合いや文脈を生み出すと同時に、複数の要素から構成される力強く優麗な構図を完成させています。スプリングフォードは1979年以降、1990年代半ばに再発見されるまで展覧会への参加を休止しますが、その休止前の最後の展覧会は、ルイス・ネベルソンが設計し、特に1970年代のニューヨークのアーティストにとっては憧れの場所でもあったセント・ぺーター教会で開催されました。本展では、「アッサンブラ―ジュ」シリーズがセント・ぺーター教会での個展(1979年)で発表されて以来初めて同シリーズの作品を出陳いたします。
スプリングフォードは1980年代半ばに病で視力を失うまで絵画や抽象作品の制作を続けました。他界する5年前の1998年には、ニューヨークのギャラリスト、ゲイリー・シュナイダーが彼女の作品と出会い、約18年のブランクを経て、彼女の個展を開催して以来、2000年以降もスプリングフォードの作品を継続的に発表しました。シュナイダーによって「再発見」されて以来、彼女の作品は再評価され始め、アメリカのギャラリーを中心に展覧会が開催されています。性別や世代、そして彼女自身の型破りなアプローチゆえに困難な道を歩んだ、ヴィヴィアン・スプリングフォードの抽象表現と色彩への飽くなき追求の軌跡を是非この機会にご高覧下さい。
[1] 1875年にナショナル・アカデミー・オブ・デザインの保守的な学科課程に不満を抱いた学生たちよって、教育的柔軟性と多様性を求めて設立された美術学校。戦後、抽象表現主義派やポップアーティストとして活動する作家が多数在籍した。