イベント紹介Event Information
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MISAKO & ROSENにて、「生きる寄す処としての地すべり ならびに/あるいは 死ぬほど素っ気ない面構えの舌ども」が7/25より開催されます。
地すべりは名目的な彫刻化と物質的な彫刻化の合間を貫く。言葉には造形芸術を活性化させる力が備わる。言葉が組み合わされることで作品を造るための口実が提供されるのだ。当の作品の帰属先としての人物性が溶解した異者たちによる融合体であろうがなかろうが。作り物として整えられた一品は作者の精神の状態がいかなる逸脱も経ずにあるいはいかなる頑強で直情的な遂行性も介さずに翻訳されたものでは決してない。事前の予行は空回りする ー それはどこかしら偏執症的なのだ。構想性には双面的な体系を超えて物理的な複合性の起点となる能力がある。あらゆる形而上学的な側面が抜群に深い印象を残したとしても最終的には物質的な言語が勝利を手中に収める。此処において地すべりは建て直されずに上書きされる。そう。変装的な文献は理性を欠いた変成のための触媒として振る舞うのが常である。捻りのない固物化はいつもあれやこれや諸々の説話素を仄めかす。ある者の精神の一式はそのような迂回的な署名が帯びる偽の自己同一性においても執拗に残存する。それでも偶発的に形成される非論理的な表面を受け入れるほかない。平凡な木製の机はその利便的な脚のひとつをモンドリアンに捧げることで物理的な手段として過不足のない機能を果たす。釉薬の皮膜で覆われた陶製の作り物は諸々の予兆を召喚し実演する。また別の作り物ではひとりの男の姿がひたすら目に入る。彼は一枚の薄膜を通り抜けながら漂流し反転することで自身との混じり合いを実行するのだ。奇人に穴を抜かれた腹は涼しげである。その一方で簡潔な言明は高次言語としての人毛を底上げする。なぜか結果としては不可解もしくは官能的なあり方に落ち着くのだが。断片的な横顔を飾る言葉を仕立てるのは結局のところ物理的な舌どもである。しばしば転移は裏返り「僕」が「作り物」の位置を奪う。AがA’を造ったとしてもAとA’は決して等しい存在ではない。むしろA’はXである。物質主義を凌ぐものとして曲解された唯名主義はA’とAの同一視に陥るだろう - それは誤りである。ある作り物における物質の振幅は目の前に横たわる世界の読み解き方を左右する。そのときL字の形体どもは垂直型と水平型の配列によって環境化する。精神の外部に広がる世界とは「死ぬほど素っ気ない面構えの物質ども」の一式に他ならない。幽界へと開かれた頭蓋は超現実を理性的に信奉することの決して崩落しない土台と関係を取り結ぶ。言葉と世界の両方に絡め取られることで培養されるのは活力と失命との相乗である。ゆえにこそ「肖像」は物体格を超越した事物として位置づけられるのだろう。この種の事物の死ぬほど素っ気ない面構えには読み解くべき魂胆など隠れていない。その威厳が私たちの心を撃つのである。
山辺冷