イベント紹介
Event Information

児玉画廊(白金)では4月17日より5月7日まで緒方ふみ「プレイルームと飯事」を下記の通り開催する運びとなりました。児玉画廊では、ignore your perspective 37「平面 ⇄ 立体 ⇄ 空間」(2017年、児玉画廊|天王洲)にて出品、今回個展としては初めての紹介となります。緒方の作品は、それを絵画と呼称しながらも、鑑賞者の期待する絵画らしさや、作家自身が絵画らしく制作することを回避しようとしているかのような、ある種の葛藤を抱えつつ提示されます。その葛藤こそが緒方の作品と他を画する要因となっているのですが、それには緒方が何をもって美しいとするか、ひいてはその美しさをもっていかに絵画を成すか、という点について理解しておくことが必要です。
 まず、緒方にとっての美しいという現象、それは曰く、「生活のように切実な行い」であることです。野生における弱肉強食然り、人の社会においても誰もが日々、食事を摂り、身辺を整え、眠り、遊び、学び、働くのですが、それは毎日を生きるために必要とされるが故に「切実な行い」であると言えます。それらを放棄することは(乱暴に言えば)生きることを辞めることです。生きるということそれ自体が美しいなどという人生礼讃ではなく、生きるためには悩むまでもなく自然と為すべきことが決まり、そうした行為と等しい程に「切実な行い」の中には美しさがある、という感性について述べた言葉です。そして、絵はそのようにして受容した美しさを、その必要性において生きるための行いと同じ位に淀みなく掬い取るものでありたいという理想です。しかし、美術制作とはまずもって生活の中では圧倒的な異物であり、作品を作るために題材やテーマ選びに苦しみ、絵を描くという行為に何らかの動機付けをしなくては筆を取ることすらできない、という現実。仮に制作が「生活のように切実」であったなら、迷うことなく筆を取り、息を吸うように描くのでしょう。絵を描くという行為、緒方にとって、いかにそれが生活の中に不自然なものとしてあるか、その自責めいた表現として「作為の塊」とも評しています。
 では、いかに絵画を成すか。何かを描こうにも、その内容について思い悩むこと自体が既に不自然な事の表れであり、そうなると「切実」なものでなく、美しくもなくなります。何かをする前の、ただ描かれるためだけに存在する真っ白なキャンバスの方がまだ美しい。では、何かを訴えるための絵を描くのではなく、無垢のキャンバスのように、在ることで美しいと思える状態を作ること、絵としての「在り方を示す」こと、それを自分なりの絵画として認識することから始めてみよう、というのが緒方の絵画制作の基本的な理念となっています。よって、何かを描きたい・伝えたいという欲求=「作為的なもの」を否定しつつ制作する必要性が出てきます。すると、ただでさえ生活の中で「作為の塊」として違和感でしかない制作行為をいかに「無作為」なものとして続けていくか、という新たな難問に突き当たることになります。
 緒方の理想である「生活のように切実な行い」、そういったものの中にも様々な制約があって、例えば作家は種子を例に説明していますが、植物が子孫を残すために獲得した用の美こそが種子であり、それは生存戦略的な選択を重ね、必要な条件に対応してきた結果です。綿毛を持ち風に舞うという条件が繁栄に必要であり、爆ぜ飛ぶことでより繁殖に適した生息地の獲得率を上げることが必要であり、その結果としての形は目的に適うと同時に美しさを兼ね備えています。目的は一つの規制として機能し、それと同じように、自身の制作の中にもある種の規制を働かせることで、「作為」をできる限り相殺し、「無作為」に近づけていくことができるのではないか、と考えたのです。例えば、筒状に丸めたキャンバスを支えもなく立てて置き、それに絵を描くと同時に、筒を倒してはいけないという規制を課したとします。すると、描こうとした矢先に筆圧に押されてキャンバスが倒れかかるので、それを防ぐためには筆を急いで逆側へ回してバランスを取り直す必要が出てきます。~したい、という自由な欲求に対して、~しなくてはいけない、という抑圧がかかることによって、制作という行為に仮想的な必然性を与えることができる、ということです。制作行為に必然性がある、という構図は緒方の理想形である「生活のように切実な行い」に少し近接する「切実さ」を生みました。そして、そこに、「作為的」ではない作品の美しい「在り方」が示せるのではないかという可能性を見出したのです。
 何をもって美しいとし、何をもって絵画制作とするかについて、緒方自身不安定ながらも折り合いをつけてきましたが、次なる問題点として、展示する、という行為についても攻略しなくてはならない事が生じました。キャンバスにただ描く、という行為から逸脱してようやく獲得した「在り方を示す」絵画の可能性を、単に壁に掛ける、台座に置く、といった方法で示しては後戻りになってしまいます。「在り方を示す」のであれば空間に対して、ここでなくてはならない、という必然性において提示しなければならず、それ以外では、結局「作為的」に過ぎるという事態になり兼ねないのです。以下の緒方による一文は展示することの比喩として著されたものです。

ー 毎日の生活にはいいヒントが沢山隠れている。例えば、洗濯物は大抵ベランダに干す。洗濯物というのは濡れていて、乾かさなければならない。乾かすためには、ベランダに干す。南向きだとなお良い。南は日中に陽がよくあたるからだ。風もふいていると良い。風があたると洗濯物は早く乾く。洗濯物が一枚以上あった場合は、ハンガーにかけて、少し距離を離して物干竿にかけると良い。その結果、干された洗濯物はとても綺麗に並ぶ。ー

 ここに至り、今回の個展のタイトルが「プレイルームと飯事」であることに緒方の今個展への思いを推して知るべきでしょう。展示するということ、特に個展ともなれば、一つの空間全てが作家のものとして供されます。ギャラリースペースという、「生活のように」とは対極にある非日常空間において作品展示という非日常的行為を行うこと、それは取りも直さず、緒方の理想を否定することに他なりません。それならば制作・展示にまつわる色々な出来事を「飯事」のようなものと仮定してみたらどうか、という趣向であるのです。「生活」の真似事としての「飯事」です。アトリエでの制作も、展示作業も、もっと掘り下げれば一つの作品制作の中の細々とした一挙手一投足までも、「生活」の真似事=「飯事」として展開し、その広げた玩具を片付けるようにして展示という整理をする。さしずめ展示室は「プレイルーム」とでも呼んでみよう。
 緒方は、それぞれが固定した最終形を持たずに可変状態を保ち続けている(展示するたびに表裏が違う、向きが異なる、組み合わせが変わるなど)ことで、作品の内容や造形自体に何かを示す・訴えるという役割をさせずにいます。形ではなく、「在る」という状態を示すための群として取りまとめられたものが作品となっているという見方もできるでしょう。そもそも、緒方の作品は、まるで種子のようにある種の可能態として「在る」ということです。そして、緒方が言うように展示という行為を、その可変性を一時的に整理した状態として提示する行いという意味で捉えるならば、それは展覧会が、眼前にある作品の未だ提示されていない多様な可能性を類推するための鑑賞者にとっての「プレイルーム」でもあるのです。

アーティスト
Artist

緒方ふみ

スケジュール
Schedule

2018年4月17日(火) - 2018年5月19日(土)
[開廊時間]
11時〜19時 (火~土)

[休廊日]
日・月曜日

開催場所
Place

児玉画廊|東京
東京都港区白金3-1-15 

その他概要
Outline

[オフィシャルサイト]
http://www.kodamagallery.com/index_jpn.html
緒方ふみ「プレイルームと飯事」