イベント紹介
Event Information

以前、個展のイヴェントとして「物質の勝利と非物質の栄光」と題して橋本倫氏と対談する機会を持った。絵画表現における物質と非物質、可視なるものと不可視なもの、イメージとヴィジョン=「視」を中心に話は進んだ。そして見ることと視ることの違いに話が及んだが、その中で橋本氏は「視」という文字の由来を紹介された。

 「視」は、目の前に在るものを真っ直ぐに意思を持って見ることを意味すると認識はしていたが、そのの成り立ちとして「しめすへん(示)」が高坏(T)の上に乗せられた供物(‐)、祭壇の上の生贄を表し、それを仰ぎ見るということから、文字が形づくられているという。

カトリックの祭儀に用いられる聖体顕示台=オステンソリウムostensoriumという祭具(薄いパンを入れる丸いガラスの容器を柄のある台に取り付けたもの)は、ラテン語の「示す」という意味のostendereという語から由来していると言われる。これはまさしく犠牲としてのキリストの身体であるパン(聖体hostia)を会衆に示し、仰ぎ見ることを促すことを働きかけるものだろう。

 ある何かが提示され(顕示され)、見ることが強制され、見る者は強い意志とともにそれに視線を投げかける。「視」とはその様な見る者と見られるものとの関係を含んだ語なのだろう。



 「ヴィジョンvision」と「視」というふたつの語の間で意味を弄するのもおかしなことかもしれないが、 制作におけるヴィジョンという言葉も、それを「視」と受けとめるとき、これから視ることになるものに対しての志向性、そして作品が実体化されるまでの意思の強度と深く関わっている。描く前に何かが明確に見えているかと問われれば、それは「否」と答えるほかはないが、描く作業の初めから終わりまで意思が欠けていることはないことは断言できる。描かれるべきものは常時「視」の中で育まれているという実感がある。その感覚こそヴィジョンそのものと言えないだろうか。



ジャン=リュック・ゴダールは「アワーミュージック」という映画の中で自身の役で出演し、映像についての講義のシーンで次のように語っている。

 「イメージは喜びだが、かたわらには無がある。無がなければイメージは表現されない。」

 先ほどの「視」という文字の由来では「しめすへん(示)」は、台の上に供物(‐)が乗っていない状態が「不」である。言い換えれば「示す」ことのうちに不在が伴っていることになる。

 「何々のイメージ」という言い方があるように、イメージそのものにはもともと実体がない。

イメージに物質的な実体を与えるのが美術であるが、そもそもそのイメージすらもともと何かのイメージではないなかもしれない。描かれるべきもの、作られるべきものは常に不可視性を伴ったものとして感知されるが、加えて、絵画にしても立体にしても、そしてあらゆるメディウムを介した表現それ自体は、それが存在しなかったかもしれないという負い目を伴っている。それが虚無という形で表面に寄り添うのだろうか。それは避けようもなく作品として実体化したイメージに付きまとう。作られなかったかもしれない作品、描かれなかったかもしれない絵画、そして何よりもまず「見られることがなかったかもしれないもの」。



 「本当に大切なものは目に見えない」とはよく言われることだが、果たしてそうなのだろうか。見ようとしているはずの私たちのうちに実はヴィジョン=視が欠乏してはいないだろうか。

確かに作品の表面に現出appearanceするものは見かけappearanceであるかもしれない。それでも物事の表層、絵画という物質の表面に漂うものに対して待機すること。いまだ実体化されないイメージ、不可視なるものは実は私たちの「視」の中に在って姿を顕しあぐねているのかもしれないからである。



 ただ絵画として現出することが身上の、絵画。

アーティスト
Artist

竹内 義郎

スケジュール
Schedule

2018年1月27日(土) - 2018年3月3日(土)
12:00-18:00

日月祝休み

開催場所
Place

プラスワイギャラリー
大阪府大阪市中央区南新町1-3-11-301 

その他概要
Outline

[オフィシャルサイト]
https://www.plus-y-gallery.com/
竹内 義郎「visions」